昭和43年06月27日 夜の御理解
昼の御祈念の後に、もうああして、一生懸命に御祈念をなさった、皆さんが御祈念をなさった後ですから、御理解もほんの一口だけ、御神誡をこういる皆で奉読さしてもらって、そしてそれに一口の御理解を頂くわけですが。今日でちょうど12日終わりましたから、ちょうど12か条の御神誡が終わったわけです。もうこれは日々それを思うんですけれどもね。もうあれは即興的です。即興的に頂く御理解ですが、はあこれは、ほんとにたいしたことだとこう思う。
同時にあの明日からは「真の道の心得」という、短い御神訓が50か条か60か条がありますが。それをまあ日を追うてその御理解を頂きいとこう、私は思とるんですがね。それでほんとにあの人間心使うたら、ただもう今までに理解し尽くし説き尽くして来ておるとですからね。ほんと言うたら。もう皆の耳にもその新しく響いて行くような、しかもそれが一口で「はあこの御教えの中心はここだ」と。これだなと分かるようなふうに説かせて頂こうと言うのですから、もうたいへんな事だとこう私は思います。
その事私今日、午前中奉仕させてもらいよる時に「はあ明日から、御神誡が終わったからこうだな」と思いよったら、神様のお知らせ下さるのに、あの朝顔がね、朝顔のツルが、こう生き生きと伸びておるところを頂いた。ああこういうこれだなと。自分の心が神様へ向かって生き生きとしとればね、もう日に日にあの朝顔のツルが伸びて行くように、もう日に日にさらな新たな感覚で、その御理解を頂く事ができるんだと言う事ですね。ですからいかにこの例えば、あれがこう伸びて行くね。
こう風にもう、まあしがみつく物もない所ゆらいでおりますけれども、それが伸びて行ってそこに何かが、しがみつくもんがあればもうそっから、こう伸びて勢力を張って行くようにね。私達の生き生きとしたその心。しかもその朝顔のお知らせは、朝この生き生きとした、いわゆるフレッシュと言うか、あの新鮮なと言う意味のね。朝顔がこの朝露に含んでおる時の、新鮮さと言った様な、みずみずしさと言った様なものが、お互いの信心の中にいつも頂いておるとね。
なるほどおかげもそのどこからか頂き、頂くそのおかげの頂き口と言うものがすぐ掴めると言う事が分かる。心が生き生きとしておればね。これは御理解を頂、教えを頂くという、と言う事だけではなくて、全てのおかげにこれがおかげを、にね。それをそのおかげがここにあっても、そのおかげにようしがみつききらんと言うのが、皆の信心が生き生きしてない証拠だというふうに私は思うですね。明日からまたほんとにあの楽しみだ。どういう御理解を頂くだろうと。
というふうな感じがしますけれども。私の心の中に生き生きしたものが、いわゆるフレッシュなものがなくなったらもうそれは頂けない。ただ棒読み読みよる他にはない。しかも表面に頂いてある、説いてあるそれを言うだけより他にない。けれどもその神意とでも言うようなもの、に触れて行けれると言う事。それはお互いの心又はそれを説く私の心の中に日に日に新鮮なものが、生き生きとした信心ができておらなければならないという。所がさあ私とても生身を持っておるから、生き生きしたものがない。
という時もあるんです。今日昼の午後の4時の御祈念を奉仕さしてもらおうと思って、ここにちょうど、10分ばかり前に出てきた。どうも心があの、カゼ気味で休んでおりましたから、何かこう、まあけんたいを感ずるような感じである。そしてそのまいってまいりましてから、ここんところの石庭に面したところのガラス戸を開けさせて頂こうと思うて、こう開けよったら2枚目の所へこう。あれは皆さん注意せにゃいけません。あそこへ挟むんですね。
もうあれが、ああいう硬い金と金との間に挟むんですから、この指が、もう、途端に紫色になってしまうようにもう痛かった私、真っ直ぐ私は、手洗いの所へ行ってから、手を冷やしましたけれど、もうずくずくして、御祈念をするまでこれが痛んどった。それで始めて私の心の中が、シャンとこうしてくる。生き生きとしてくるね。例えばあの、水揚げをしない草花に、根元を叩いて、そしてあの水揚げをするようなもんじゃなかろうかと。神様はこういう演出までなさって。
まあ私の心の中に、水を吸い上げる力と言うかね。神様へ折角御祈念をさしてもらう。ほんとの御祈念ができる為に、そういう手を使て下さったという、私は思たんですけれどもね。そんなことでした。「ああ痛いよ」と言うただけでは、だからいけませんね。絶えず自分の心の中に、生き生きしたものを求めておかんと、神様が痛い思いをさしてでも、分からして下さろうとすることすらが分からないね。ですからね、信心にはもう、どうしてもこの生き生きとしたものが必要である。
でないとそのおかげにしがみつかれん。折角のおかげをここにだしてあっても、それに向かってツルがそれは分かりませんよ。ツルがどちらに向いて伸びておるか分からんけれども、そこにはあったが最後、それにぱっとしがみついて、そっから上って行けれる。これがツルが上っていなくて、ただおかげを下さいおかげを下さいと言うたんではね。おかげの神様やりようがないとおっしゃるね。ですからもう、生き生きとその、やはり心が枯れておったんでは、神様もそれを伸ばしようもありなさらんのですから。
心が生き生きと神様に向かって行く為の、工夫がいつもなされなきゃいけん。それにはやはり自分で心がけた修行。そういう生き生きした信心の修行がね、いつも神様へ心がこう向かっておる。ですからおかげが頂き易いと言う事になるのですね。明日からまた、皆あの12日間の御神誡に対する、これはもう新しい新解釈ですよね。今まで私も感じ私もかつて頂いたことのないような表現で頂いておるでしょうがね。
ですから今日は、高橋さんが毎日あれを塗板に書かれてから、後でばらばらにメモしておるとを「なくなっちゃいけんから。閉じっときましょう」ち言うてからね「明日から楽しみだ」というふうに言うておられますけれども。これは結局私の生き生きとした信心に待つより他にはない。私信心がここに停滞したら、もうそれは新しい、斬新なものをそこから頂く事は難しい。だから皆もそこんところを頂く事がね楽しみ。そして朝晩の御理解でもそうでしょうがね。
いつでもいつの日でも、新しいこれは感覚と新しい内容を御理解下さるでしょう。だからそれは言葉にはね、今まで使っていた言葉たくさん使いますけれどもね。もうその晩だけでしか頂けないと言う、斬新なものが必ずあるんですよ。そしてそこんところをね、お互いの生き生きとした心でないと、そこんところがキャッチできないね。ならそれは、御理解をの神意をキャッチするというだけではなくてね。おかげをキャッチして行く意味合いにおいても、それがどうでも大事だと言う事ですね。
どうぞ。